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汐入周辺の歴史

 

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戦前から明治以前

 

 今から400年前の戦国時代。上杉謙信の家臣13名ほどが汐入に住み着いたのが始まりと言われています。

 当時は徳川幕府以前なので「江戸」という概念もない時代です。

 先人たちの暮らしは主に農作物により生計を立てていたようですが、臨時収入としてはこの地で取れる貝殻は良質であったため、貝殻をつぶして「汐入胡粉」とし京都方面に出荷し、高く評価され、今でいうアルバイト、臨時収入を得ていたといわれています。

 
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明治時代

 

 明治に入ると政府も欧米に見習うべく「殖産興業」「富国強兵」のもと国造りが始まり、隅田川沿いの町や村は大きく変貌していきます。

 汐入も現在の汐入公園や産業高専の地に、大阪の大日本紡績、胡録神社からトキアスマンションにかけて、墨田区の鐘ヶ淵紡績、日本石油油槽所が進出します。

 近隣でも、福島方面に良質な石炭が発見され、集積地として南千住が選ばれ、隅田川操車場、東京瓦斯工場が進出します。

 これらの産業構造の変貌により、汐入地区にも、地方から大勢の労働者が移住してきて、再開発以前の汐入の街を形成していきます。

 一番多い時で、現在と同じ12,000人ほどが居住していたといわれています。

 
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関東大震災と汐入の魚市場開設

 

 大正12年9月1日の関東大震災は、主に神奈川県相模湾を中心とするもので、死者10万人と言われていますが、汐入地区では大きな被害はなかったようです。

 一方、地震の地殻変動により、茨城から福島にかけての海面からは、豊漁となり、食糧不足の東京へ出荷されます。

 魚は、連日にわたり、常磐線で隅田川操車場へ運ばれますが、そこから先の道路が損壊で、市場への運搬が不能となります。

 この状況の時、南千住汐入の有志が集い、「汐入地区内に魚市場の営業」を計画し、短期間で営業が始まります。

 場所は現在の汐入公園の水神橋近く、時計塔付近です。

 市場は半年位で足立区に移転し、現在の千住大橋の足立市場へと引きつがれていきます。

 

 
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隅田川操車場と捕虜収容所

 

 太平洋戦争末期の昭和19年、隅田川操車場で働く労働者の多くが戦地に赴き、荷役不足に陥ります。

 作業を預かる日本通運が、陸軍に労働者補給を要望し、当時、大森本町(現在の平和島)にあった収容場から、500人の捕虜がトラックに乗り込み、当地に移動してきます。

 それから終戦8月15日まで、当地で貨物の荷役労働をしますが、終戦と同時に救援ボートが上陸し、ただちに捕虜を救出し去って行ったとの報告があります。

 
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戦後から再開発まで

 

 終戦から再開発までの汐入を書く時、年代によってかなり異なってくるので、ここでは昭和23年生まれ、すなわち「団塊世代」の眼から汐入を語ってまいります。

 昭和30年に入ると、世の中は貧しいながら活気に満ちてきた時代です。

 地元の五瑞小学校も、1学年50人で4~5クラス、全校で1,400人位でしょうか。

 日教組の活動も激しかったようです。

 40年代に入ると、汐入の紡績工場も臨海工業地帯の方へ移転し、空き地に「自動車教習場」「ゴルフ練習場」「ボウリング場」等ができ、地元はもちろん、他からも多くの人が来ていました。

 南千住には、プロ野球の大毎の本拠地、「東京スタジアム」も完成しました。

 
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